母のカレー

随筆

社会人一年生の時のこと。
夏期休暇中でほとんどの者は帰省しており、寮内は静かで穏やかな空気に包まれていた。
用がなければ涼しい部屋でビール片手にTVを観たり本を読んだり音楽を聴いたり、気ままに過ごしていた。遠くで蝉の声、マイクのポップコーンをつまみながら真っ昼間のビール、なぜああも旨いのか。
正午間近、夏期休暇中は食堂もお休みなので、俺はカップ麺でも作ろうかと思い湯沸かしポット片手に洗面所に向かった。
廊下は多少暑かったが、窓から見える床屋のあの赤と青の線がぐるぐるしてるやつが強い日差しに照らされて、なんだか平和だなと思った。

一瞬殺気が俺を刺した。魔気といったほうがよいか。俺は不安になった。
洗面所まで5mほど。違和感を覚えた俺は、目を凝らした。
洗面所入り口の壁に黒っぽい異物が貼り付いている。
奴だ、奴の禍々しい気配がする。疾きことエアホッケーのパックの如く、徐かなること路傍の石の如し。Gだ、いや、クワガタかもしれないぞ。ゴミかも・・・逃げるな俺、現実を見ろ! 紛れもなくGだ、それもでかい。
どうしよう。何か回避策はないのか、待つか、戻るか?
そうだ、戻って階段で下に降りて大回りして向こう側の入口から入ればいいじゃないか。
いかん、いかんぞ。たかがG、俺の何百分の一の大きさじゃないか、何を気圧されているんだ。先祖代々不倶戴天の敵、背を見せるなど恥ずべき行為だ。行け、行け行け行くんだ、俺。俺は、奴を見据えて一歩を踏み出した。
静かに、静かにだ、廊下の端づたいにそっと通れば奴は気付くまい。こちらが敵意を見せなければ奴も動かないはず。専守防衛だ。万が一奴が少しでも動いたらダッシュだ。

世の中の動きはすべて天の采配による。人知の及ぶところではない。
廊下を挟んで奴と俺は対峙した。距離およそ2m。俺は少しだけ優位に立った。ダッシュして向こう側の入口へ行けば俺の勝ちだ。この入口は捨てるしかないと心は決まっていた。
よしっ! ダッシュしようと気合いを入れた瞬間、奴は羽ばたいた。すべての動きがスローモーションとなり、奴の薄羽がが光を透し、俺にはそれが美しき凶器に見えた。ダッシュどころか俺は立ちすくんだ。だが奴は嬉しいことに洗面所の中へ向かうように見えたものだから、緊張が少し緩み脳裡でとてつもない速さで次の一手を探り始めた。しかし、なんということ! 奴は旋回しやがった! そんな能力聞いてないぞ! パニック!
我に返ると俺は逃げていた。本能が俺を守った。考えてはいけなかったのだ。ただ己の防衛本能を信じればよかったのだ。もう一つの入口の前に佇み、さっき襲撃されたあたりをみると、奴は廊下の真ん中にいた。
戻りは下の階から行けばいいよな、俺は次の策を講じながら洗面所に入った。

部屋でカップ麺をすすりながら、俺は心を決めた。
明日、実家に帰ろう。母さんのカレーが楽しみだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました