少年期 その2 「中華蕎麦とおでん」
小学生の頃の記憶。家庭用コンピュータゲームはずっと先、家でゲームと言えば、囲碁将棋、トランプ、野球盤、人生ゲーム、ボウリングゲームなどなどで、あとは多少なり裕福もしくは見栄っ張りな家庭にあった光線銃ぐらいか。だから当時の子供は、外で遊ぶことが多かった。
住んでいたのが、マンモスとまでは言えないが、そこそこ広い団地(県営住宅)。その一角に、郵便局、床屋、スーパーなど普段使いできる店舗が集まっていた。外で遊ぶといっても食事時には帰宅するのが通常だが、まれに一日中両親不在で、昼は外で食べる必要があった。そんな時決まって行く店で食べるもの、それが、これも決まりの中華蕎麦とおでんだ。
そもそも小学生の私が知っている飲食店など一軒で、この店は寿司屋なのだが、年齢層の若い夫婦ものが多い大型団地の中の店なので、様々な需要に応える必要があったのだろう、大衆食堂的な存在だった。
ひょっとすると、今は滅多に見かけない「支那そば」と品書きにはあったかもしれない。なるとと支那竹にあの黄色い縮れ麺がとても食欲をそそったものだ。さっぱりしたスープの出汁はモミジからとったものかと、今になって思う。そしておでんだ。串の色で値段が異なる。大好きな玉子と竹輪(竹輪麩ではない)が私の定番。串の端をつまんで、おでん容器の真ん中の味噌壺的なものへ突っ込むスタイル。辛子はいらない。玉子の黄身と味噌だれが混ざった味は至高。今も大好きだ。不思議なのは見向きもしなかった大根、これが年齢を重ねるほどに好物となったこと。名古屋では、味噌だれを加えた出汁で煮ることが多いようだが、その店では味噌だれを後でつけるのだ。我が家でもそれだった。愛知県、特に尾張では味噌おでんでなければ邪道と言われてもしかたがない。郷土の味とはそういうもの。
買い食いといえば、常日頃は毒々しい色が素敵な駄菓子かスーパーの袋菓子や綿菓子なので、飲食店でおでんと中華蕎麦を目の前に並べると、なんだか少し大人になったような気がしたものだ。ああ、思い出した。あの頃の味といえばリンゴ飴もだ。地元の神社は大きくなかったが祭礼は結構賑わっていた。その祭りで当然屋台がいくつも立った。リンゴ飴は割り箸を刺したリンゴに紅くて甘い蜜をかけてかたまらせたもので、子供に大人気。まるごとのリンゴは子供には大きすぎるため、私達は口の周りだけでなく時には鼻先まで紅くして笑い合っていたものだ。祭ではまだ見世物小屋があって、親には禁じられていたがしったことではない。だめと言われたならば見ずにはいられないのが子供だ。河童の三ちゃんはご愛敬だが、蛇女なるものが生きた蛇の頭を食いちぎった様には仰天し、二度と見ないと決めた。生活のそこかしこに粗雑だがどこか滑稽さがあり、子供らは、大人達のおせっかいな優しさと情に守られていたなぁ。
高度成長期で大人はがむしゃらに働いていたはずなのに世の中はどことなく大らかで、努力が報われそうな期待感のある時代だった。洗濯機の脱水はまだ手回し式で、車の窓の開閉も手回し式。冷蔵庫はあったがエアコンはない。団扇と扇風機と麦茶と薄めのカルピスで暑さはしのげた。便利と不便のバランスがほど良い時代だったような気がする。これもまた心地よい思い出補正。
次回予定は、少年期 その3 「五平餅とビール」
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