幼い頃から「やればできる」と何回となく言われてきたのだが、何をやれば良いのか何故やらなければならないのかわからなかった。
随分と焦れったい、人によっては怠惰な者に見えていたのだろうな。
たまには喜ばれるようなことを見繕ってやってみせることもあったが、本心ではやりたくないのだから長くは続かなかった。
悪い奴だと思われないように、悩み多い奴だと思われないように、そんな風に生きてきた。
還暦も何気に追い越した今「俺は安らかに死ぬために必要な何かを置き去りにしてきたのではないか」と考えることがある。
真っ青な空を見上げ
真っ白な雲を眺めながら涙ぐむのは何故だろう
それが本当にやりたいことなのか見極めもせず、とりあえず生きて行くためにやれることをやってきた。これではいけないと思って何か目標を立ててみても三日坊主どころか一日坊主。そんなことを繰り返しては忘れ去り、ふと思い出してまた繰り返す。いつのまにか空虚な生活が平安なのだと勘違いしていた。
紫紺の空を見上げ
雲を照らす月を眺めながら嗚咽するのは何故だろう
わかっている
何もかもわかっているのだ
天命など無いということを
いや、何を天命とすべきか決めるのは自分という神なのだということを
決めるか決めないか、目を逸らすか逸らさないか、行く道を照らすのも進むのも自分だということを
だけど背中を押して欲しい
引っ込み思案の俺だから
甘え方を知らない俺だから
愛し方を見つけられない俺だから
だから祈る
魂の片隅にいつも祈りを抱きながら
泣いて笑って生きて行こう
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