思い出は食べ物と共に -6-

随筆

青年期 その2 「山賊焼とA定食」

大学生という立場に慣れてきた頃の記憶。大学生御用達の店というのがいくつかあった。もちろん私達(医学部生と一部の裕福系を除く)の財布に優しい店でなければならない。そんな一軒が山賊焼を売りにする店であった。今では山賊焼と言ってわかる者も多くなったようだが、当時だと中信地区以外では知られていなかったのではないか。
鶏のもも肉を開き特製のタレに漬け込んだのち唐揚げ(竜田揚げ?)にしたものだ。出す店は松本市内に数件はあったと思うが、我々が行く店はごく庶民的で何を食べても安くボリュームがある定食屋だった。山賊焼定食にはたっぷりの野菜となぜかゆで卵もついていた記憶がある。友人との会話もそっちのけで、手の平よりはるかに大きな山賊焼にかぶりつく。

思い出せばとても幸せなひとときだったのだなぁ。山賊焼の元祖は塩嶺峠(塩尻峠)にあるとある店だとの情報を得て学友達と訪ねたこともある。旨かったが遠いため原付バイクであってもガソリン代がかかるということで一度きりになった。学生にとって安さと量が最重要ポイントなのだ。塩嶺峠といえば、渓斎英泉の「木曽街道六十九次」でも描かれていて、諏訪湖方面の展望がすこぶる良い。
プリンス・スカイラインミュージアムのあたりからの景色は素晴らしいものだ。遠目にはなるが諏訪湖の花火も丸ごと見られる。諏訪湖の花火は全国的にも有名で、湖上花火がよく取り上げられる。花火そのものも素晴らしいが、ぜひ近くで見て音と振動を感じていただきたい。爆発音の直後、腹にぶち当たる衝撃に驚く。人出が凄いので近寄るのは容易ではないが…。

諏訪と言えば諏訪湖。現在は改善されていると聞くが、その頃はアオコの発生が酷くとても観光地の湖としてオススメできるものではなかった。冬のワカサギ釣りが風物詩だったが、諏訪湖のワカサギなど食べたくないなというのが本音であった。大学院生の先輩がそのアオコの研究をしていたこともあり当時の実態はある程度知っていた。今は水質もかなり良くなったようで、きっと諏訪大社のご祭神も安堵なさっておられることだろう。

話が逸れたが、次はA定食である。夫婦で切り盛りしている定食屋なのだが、安い。A定食かB定食(C定食まであったかは忘れた)が私達の定番で、うろ覚えだが250円と300円だったと思う。当時としてもかなり安いだろう。内容はハムエッグとコロッケ、唐揚げだったような、まあ学食並の安さで手作り定食がいただけるのだから本当にありがたかった。自転車で来ている者が多かったな。少し金に余裕のある時は400円の中華飯にして、ほんの少し晴れやかな気分にひたったものだ。一度だけ、たぶんもっとも値の張るヒレカツ丼を注文したことがあるが、とんでもなく時間がかかり後悔した。おそらく滅多に出ないであろうヒレ肉の解凍に時間がかかったのではと察する。店と自身にそぐわない行動は慎むべきと悟った。安い定食屋であっても外食など贅沢だという思いはあったが、日常的に具無し焼きそばや具無し炒飯をおかずに白飯を食べるなどと栄養への気遣い無縁の食生活をしていた私にとっては、たいていキャベツなどの野菜がついている定食というのは、それで僅かだろうが栄養バランスがとれていたのでは?、ま、苦しい言い訳やね。そもそもあの頃は野菜を買うという発想がなかったな。漬物にしてもアパートの管理人が大きな桶に漬けている野沢菜を好きに食べて良いと言ってくれていた。京都市もそうだと聞くが、松本市は学生に優しい気風があったような気がする。今は知らないが、教育県という矜恃もあるようだった。とはいえ、やや東京指向がみられ、本格的で高級なレストランやこだわったコーヒー(一杯3000円以上)を提供する店もあり、自分には無縁だなと横目で見ながら通り過ぎる日々でした。

自炊でよくオカズにしたのは、発泡スチロールに入った鰯の目刺し。20~30匹入っていたと思う。安くて旨い。素晴らしく頼もしいオカズだった。目刺しで、学生寮にいた同級生のことを思い出した。彼は実家が商売で失敗し仕送りも絶え貧乏生活をせざるをえない状況だった。そこで池で釣ってきた魚(種類は不明)を捌き干物とし保存食にしていた。寮には貧乏学生が多かった。まだかろうじてあった売血を、違法なはずだが一日に2回受けてふらふらしている者もいた。寮について一言付け加えると、貧乏学生が多かったが逆に私などよりずっと裕福な者もそこそこいた。審査のある寮になぜ入れたのか聞いてみたことがある。いわく、農家は年収をごまかせるから、だってさ。今は知らないが昔はいろいろゆるかったのだろう。貧乏というのとは違うが、とんでもない奴もいた。居酒屋から寮へ帰る途中に警察署の前を通るのだが、その彼はかなり酔っていたらしく、当時木で出来ていた警察署の看板をはずして寮へ持ち帰ってしまったのだ。すぐに気がつかない警察署もどうかしてるがそんな物を持って行くなんて想定外だったのだろう。で、あんなもの隠せるわけもなく、彼は当然すぐに引っ張られた。が、正体不明なほど酔っていたことと、やはり学生に甘い気風だったのか説教ですんだとのこと。ま、とられた警察も恥だしね。そんな街、そんな時代でした。

最近驚いたのは、国立大学の授業料年額が535,800円だということ。わたしの入学時は144,000円だったはず。平均給与の上昇具合に比べて上がりすぎでは? いっそ無償にして入学も卒業も厳しくし、少数精鋭化したらよいと思う。かわりに職業訓練高のような性格の学校を増やせばよい。

松本市は昔も今も観光都市である。山都というが盆地のため生活圏の多くは平地で、ただし、周辺には説明するまでもなく高名な山々や観光名所がある。本格登山は別として気軽に行ける観光地として上高地があった。まだ夏のシーズン期間以外は規制もない時代で、私達は原付バイクにTシャツにサンダルなどいう舐めた出で立ちで訪れたものだ。今は白馬といえばスキーやスノーボードだろうが、当時、
スキーは当然のこと夏のハイキングがすがすがしく、あれは佐野坂あたりだったか姫川源流の湿原とか、白馬(仁科?)三湖が素敵でした。木崎湖周辺を散策した後食べるおむすびが旨かったなぁ。都会の真ん中で、高級素材と卓越した技術から生み出される料理を味わうのも素晴らしい喜びを得られるが、澄んだ空気眩しいくらいに輝く美しい景色の中でおむすびをほおばる幸せにはおよばないだろう。

思い出は美化されやすい。嫌な思い出でさえも時に美化される。心の自衛本能かもしれない。美化される思い出がに気付くこと多ければ多いほど、私の人生もそれほど卑下すべきものではなかったのかもしれないなと自分を肯定してみたりする。それはたびたび自己嫌悪に陥る私の救いにもなる。もうしばらく生きていて良いのだなとひそかに安堵し、少し幸せな気分にひたる。時薬思い出処方、かな。

次回予定は、青年期 その3 「河豚ちりとさくら鍋とうな重」

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