鰻の蒲焼き、秋刀魚の塩焼、豚の生姜焼、肉じゃが、チョコレート…
好きな食べ物はいくらでもあるが、食べた時の光景やその時代の景色が思い出として浮かんでくるようなものがある。忘れない内に書いておくのがよいなと、ふと思った。
少年期 その1 「クリームソーダとミックスサンド。そしてクリスマスケーキ」
小学生の頃の記憶。おそらく今よりずっと親戚づきあいが濃い時代の話。
車で小一時間のところに親戚があった。その家の主は私の両親と郷里が近く、母の実姉である伯母の嫁ぎ先であったため親しくしており、年に数度は訪ねたものだ。
そこには私より数歳年長の従兄と従姉がおり、よく遊んでもらったが今は疎遠だ。仲が悪くなったわけではなく、まぁ何となく…生活拠点が離れたこともあるしよくあること。
訪問するたびに従兄の玩具や古着をいただいた。あと小遣い、これは母が管理してくれていたようだが、どう使われたのかは不明。たぶん私に関わることに使ってくれたのだと思う。
親戚は本業とは別に喫茶店をやっていて伯母が切り盛りしていた。訪ねるのは定休日なため繁盛していたかどうかは知らない。
店内には自分の家にはない座り心地の良い椅子やちょっと派手めな室内灯などがあり、自分にとっては非日常な世界にいるようで、少なからず心躍ったものだ。
その高揚感に花を添えてくれたのが、伯母の作ってくれるクリームソーダとミックスサンド。夢見心地で食べた。なにせ普段は甘い物といえばたまに貰える角砂糖、あるいは駄菓子屋の毒々しくも鮮やかな色の飴くらいだ。また、ミックスサンドなんてハイカラなもの、近所になかった。ごくたまに連れて行かれたデパートにはあったのだろうが、何せデパートに行けばそれどころではない、屋上階のゲームである。ピンボールやパチンコなどチープなゲーム機ばかりだったが、私には天国だった。
伯母はとても優しく気遣いのできる人で、業務用のカレー缶や調味料など一般家庭ではなかなか目にしないようなものをいただいた。
父の仕事の都合上、クリスマスは必ず母と二人で過ごした。それを不憫に思ったのか伯母は毎年クリスマスケーキを届けてくれた。とてもありがたいことで、思い出すたびに鼻をすすることになる。年に一度のホールケーキと、母が買ってきた鶏モモの焼いたやつ。それがクリスマスの夜の我が家の景色だった。寂しさを感じたことは一度もなかった。
父母やその兄弟姉妹も、跡継ぎでなければ若いうちに都会へ出て働くのが当たり前の山村が生まれ故郷なわけで、都会へ出てきた親戚同士の結束が固くなるのも自然のなりゆきだろう。
そんな父母や親戚衆と高度成長期の日本を助け合って生きていた。
セスナでデパートや大手スーパーのチラシをばらまいていた。アドバルーンもあった。家の前は未舗装路で雨上がりの水たまりにはアメンボがいた。野良犬や立ち小便する親爺もいた。便所はポットンだし、肥溜めもあった。
生活音が違った。賑やかな子供の声、豆腐売り、わらび餅売り、紙芝居、酒屋の御用聞き、工場の織機の音。なんといったか、米を破裂させててお菓子にするやつ。夏の昼下がり、扇風機と風鈴の音。
あのほどよい猥雑さと活気ある毎日が懐かしくも心地よい思い出。
今の生活の方がはるかに便利で清潔で効率的でありがたいのは確かだが、あの頃より気楽で安心な人生を送れているのだろうか。子供だったからそう思うだけかもしれないな。思い出補正は無い物ねだりに似ている。
次回予定は、少年期 その2 「中華蕎麦とおでん」
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