少年期 その3 「五平餅とビール」
中学生の頃の記憶。父と母は同郷同村の出身で実家は500mも離れていなかった。昭和一桁生まれあるあるで兄弟姉妹が多く、お盆には県外に散っている親戚一同が本家に集まるのが恒例。午前中は墓参りをし昼からは宴会だ。だが子供の私は宴会など興味も無く、従兄弟姉妹達と近所の山や川で遊んだ。母の実家の脇に幅1mもない浅く細い川が山から下ってきていて、石をひっくり返して沢蟹がいるとはしゃいだりしたものだ。雪景色の中で赤ん坊の私をおんぶしている叔母の写真が残っているので、正月に実家へ帰ることもあったのだと思う。冬にあの山村への行き来はかなり厳しいはずなので、次第に盆だけ集まることとなったのだろう。軽自動車で峠越えをするのだが、当時の軽自動車は今ほど力がなく、急な上り坂では母と私が下車した記憶がある。今時の帰省の中心的な話題が渋滞がなのは隔世の感がある。
夕方、相変わらず賑やかに飲み食いしている大人達の傍らで子供らはささっと夕飯をすませ一息ついていると、外の道を話し声と下駄の音がいくつも通り過ぎる様子に気付く。学校の校庭で盆踊りがはじまるのだ。今では過疎の村だが、当時はまだ若者もそれなりにいて踊りの輪も活気があり見応えもあった。周囲の山空に響く盆踊りの唄(楽曲名は不明)に何となく高揚した。とはいえ、あの同じ所作をくり返す踊りが性に合わなかった私は、電灯を片っ端から見て回った。集まってくるクワガタやカブトムシが目当てだ。ミヤマクワガタがいたら夢のよう。そんな田舎での忘れられない思い出の味がある。
五平餅。御幣餅とあらわす地域もあるようだが、いずれにしても田舎の素朴な伝統食の響きが好ましい。お盆もそうだが、婚礼はもちろん大往生したじじばばの通夜などで人が集まると五平餅の出番だ。隣近所の女衆が集まって焼いてくれる。父母の郷里あたりの五平餅は、炊きたての飯を半殺しにしたものを幅3~5cm長さ30cmほどの串?に巻き付け平たく大判金貨のようにしたものを炭火で素焼きにしたうえで、たっぷりの胡桃味噌をぬってさらに焼く。旨かったなぁ。
焼けた炭の匂いを押しのけるように味噌の焦げた香ばしい匂いが立ってきたらできあがりだ。その様子を子供達はワクワクして見守る。ときおり女性達が子供達をからかって笑い声が上がる。明るく豊かな時間が流れる。
そんな雰囲気や場こそが教科書不要の教育となっていたのだろうと思う。これは田舎でなくても日本中の生活の場が、今よりもはるかに教育の場でもあったのだと思う。良い悪いではなく、そういう時代と世の中だったということ。
ビール。あれは母方の祖母の通夜振る舞いだったと記憶するが、大広間に様々な人(駐在さんもいたと思う)が次々と来て飲食しては帰りする中、そんな通夜客の相手を一手に引き受けてくれる、ひときわ大きな声の伯父がいた。
今になって思うのだが、伯父はどうみても酒焼けというやつだろう、首から上がいつも赤みがかっていた。親戚一同の親分的な存在だった。といっても怖さや圧力的なところはなく、いつも笑い混じりの大きな話声が場を明るくさせてくれていた。
通夜客が途切れて手持ち無沙汰になったのか、その伯父がちょっと来いと私を手招きしたので隣に座ると、コップに茶色い炭酸水を注ぎ、確かまだ中学一年生の私に飲んでみるかと言って差し出した。
ビールという言葉は知っていたと思うが、何となく子供が飲むものではないとわかっていたので無関心だったのだが、突然強制的に関心を持たざるをえなくなったというわけだ。
当然困惑したが近くに両親の姿も見えず、実は急に興味が湧いてきたこともあり少しすすってみた。初めての香り初めての味初めての泡、旨いともまずいとも思わなかった。変な味? もちろん、10年後に好物になるとは知るよしもない。
見つめる伯父の笑顔に何か挑まれているような気がして、コップ半分ほどだけだが思い切って流し込んだところへ母があらわれ、私はあわてて部屋を出た。「○○○(私の名)はいい酒飲みになるぞ」。伯父の大きな笑い声が追っかけてきた。その後伯父は母に怒られたらしい。後で父がこそっと教えてくれた。
時に荒っぽく時にがさつだが、どこか優しく明るく情に満ちた景色が、社会のそこかしこに見られた時代。大人が子供をからかうことが今より確実に多かっただろうし、嫌な思いをさせれることもあったろう。だが、大人が自分の欲望や目的のために子供を利用することが極めて少ない世の中でした。
大人の保護範囲内でのほったらかしが、子供の私には居心地よい毎日だった。とまた思い出をあえて美化するのも、還暦過ぎた自分には楽しいひととき。
次回予定は、少年期 その4 「炒飯とピラフ」
コメント